0327

もう頻度とかそういうのは気にしないことにした。

 

2月の上旬から仕事を始めた。実家から比較的近い会社の営業事務である。

営業事務自体の経験は新卒の時に一応(いい思い出かどうかは別として)しているので、仕事にはそこまで抵抗もなく入っていくことができた。

人間関係は、私はあまり踏み込みたくないし踏み込まれたくない性格なので必要以上のことは話さない距離感を何とか保っている。周囲を見ると割と仲が良いというか、昼休憩も同じ休憩室で会話をしながら…ということが普通らしいので、昼休憩は外食派の私は向こうからしても分からない奴に見えることだろう。別に外出ができないわけではないし、周囲に店もあるのでこれも特に問題はない。

ただ、かかりつけの心療内科が平日の18時までということに気付き、休みを貰わないことには通院できないのが問題ではある。別に前日までに伝えていれば問題なく休めるけど。

 

それで、今日は午後休を貰って病院に行ってきた。

薬が切れかけていたので、昨日ダメ元で予約の電話をしたらあっさり予約が取れた。この時期は花粉症の薬も貰っているので薬がなくなるのは死活問題である。

そこで先生と話していてわかったのだが、どうやら私は過敏すぎるらしい。

……知ってた。

現状、私は職場にしろ家にしろ、自分の言動が相手を不快に「させている」ものだと考えがちである。そして(絶対にやらないけど)それを相手に直接聞けば「そんなことはない」と言われると思っているし、そうは言っても不快に思われているんだろうなー、と考えている。

さらに、直接の会話どころか相手が立てる物音からですら相手の感情がネガティブなものであると感じている。ただこれは「騒音が苦手」とは異なり、例えば一人暮らしをしていた頃のアパートの隣人のたてる音とか、飲食店に入った時に近くの人が立てる音とかそういったものには抵抗があるわけではない。

こんなことをずっと続けていたら「悪い病気になる」そうである。

それでなんやかんやあって薬が増えて薬代を見た私が愕然とするまでがワンセット。

副作用で胃の調子が悪くなったことのある薬が増えたりなんか知らない薬が増えたりした。なんてことだ。

 

特に家にいるときに上記の症状があると自宅にいながらして一瞬も気が休まらないという面倒なことになる。

自室に居ても階下や隣室から聞こえる両親の立てる音や話し声が気になって仕方ない。なので今はヘッドフォンで耳を塞いでいる。

 

さらに両親(特に母親)との関係に悩むことが増えた。

平日は仕事に行き、その帰りにお茶とか買い物をしてから帰るのが私の唯一ともいっていい楽しみだったりするのだが、そうなると父親からもっと早く帰ってくるようにと言われる。(ちなみに門限は明言されていないので無いという認識でいるのだが、遅くなるといっても精々21時前程度である)

というのも、現在母親があまり体調(精神面も)がよくないのである。しかし毎日の家事はしているし、私や父親の帰る時間まで夕食の準備をして待っている。

しかも「早く帰ってくるように」はあくまで「お願い」という体で言ってくるのである。「お母さんは体調が悪いのに待っているが、『それについてどう思う?』」と言ってくる。

はあーーーーー?である。

それならもっと早く帰ってこいって言うだけでいいじゃないか。ここで私が素直に「体調が悪いなら私の帰る時間まで待たずに先に休んでいて欲しい、何なら夕飯もいらない」なんて言ったらさらに話が拗れること請け合いである。でも私はそうしてほしい。

……ということを病院で先生に話したところ、「そのくらい言えばいいじゃない」と言われた。

しかし私には致命的な弱点があった。「親に口答えができない」のである。

親が言ったことは多少自分の意に沿わないくらいでは反抗しないし、精々自室に籠もるくらいしかしてこなかったツケがこんなところで回ってくるとは。

上に書いたようなことを「親に言う」と考えただけでよく分からないが涙が止まらなくなる。同時に親から自分の行動に対して何か言われたときもよく分からないが涙が出る。私の精神の構造は親が絶対だと信じているらしい。

確かに私はこの24年間この両親のもと一人娘として育てられてきた。それに感謝「しなければならない」とか「逆らってはいけない」とかそういうものが根底のもう覆りようのない位置にあるらしい。

だから間違っても私は昔からしょっちゅう死にたいとか消えたいとか生まれてきたくなかったとか考えているなんてことを親には言えないのである。

 

今日も帰りに自転車を漕ぎながら何とか言えないだろうかと考えたが無理だった。そもそもまともな会話をすることすら苦痛である。親と仲が悪いとか、そういったことは一切ないはずなのだが。

先生にはこうも言われた。「もういい子ちゃんはやめよう」

それなー。

ずっとやめたかったんですよね。それ。

今年中にはやめたい。

 

というわけでやっぱり一人暮らしがしたい。

というか、大学~社会人2年目までの一人暮らし経験がなかったらまた違った結果になっていただろう。しかしあの6年間なくして今の私はないのだ。ないのだが、その経験がなければ今家族関係でここまで悩まなかったのだろうか。それとも遅かれ早かれこうなっていたんだろうか。

もしものことは考える意味もないけれど、たまにそう思ってしまうことがある。無駄だったかなとか。

 

普通の人(何をもって普通とするかは今は措く)は毎日職場の階段を上りながら死にたいと思い続けていれば迎えが来てくれるかなとか、遊びに行った先の電車のホームの端から線路に視線をやったりとかはしないらしい。

私は何がいけなかったんだろうか。

普通にしんどい。

 

普通にしんどかったので、病院近くの本屋で約7000円分の本を買い込んできた。ゆっくり読もう。

0123

まさかの1ヶ月放置である。年を跨いでしまった。

いや放置しようと思ってしていたわけではなくなし崩し的に、という感じなのだが!

 

年末は派遣の仕事の期間を終え、その給与を持って東京へ出向いていた。

そう勿論アレである冬の祭典inビックサイトである。

コミケ参戦は今回が3回目になるのだが、毎度あの独特な熱気というかテンションというか、それに理性を持っていかれて気が付くと大量の戦利品を抱えているのである。

とはいえ何だかんだ言って1日の戦利品の量が手持ちのA4トートバッグのキャパを超えることはなかったので今回もそのつもりでいた。

……足りなかったのである。

結局会場で少し大きめで頑丈そうなバッグを調達しそこに詰め込むことになった。

コミケは魔境である。

 

そんな感じの年末を過ごし、何となく年が明け、それから既に半月が経った。

この半月はなんというか、とても心身共に調子が悪くほぼ寝たきりみたいな生活を送っていた。自堕落である。

この調子の悪さの一因としては飲んでいる薬(おそらくレクサプロ)の副作用の吐き気的な症状があるのだが、にしたって調子が悪すぎる。

今は減薬してもらったので多少軽減されたけど、無いなら無いで不調が出てくるのが精神科の薬ってやつである。

精神面の調子がおかしかったのは結局何でだかよく分からない。PMSと言われればそのような気がするけど……

まあ私の浮き沈みが激しいのは今に始まったことではないので適当に流していきたい。

 

そして昨年末辺りから何故かWikipediaをすごい勢いで読んでいる。主に日本の刑事事件とか未解決事件とかその辺を。ついでにそこに参考として挙げられていたサイトにまで飛んであらゆる事件録を読み漁る始末である。

そして先日、とうとう市の図書館でその辺関連の本を3冊借りてきた。完全に危ない人である。

もし私に何かあるか何かするかしてネットの閲覧履歴とか洗われることになったらとんでもないプロファイリングをされる自信がある。

私は正常です。

 

多分一度にあらゆることを書きすぎると次更新する気力がなくなるんだと思う。

今日はこの辺にして、修練場周回に戻るとしよう。

 

1218

過去何度か手書きで日記をつけたことがあるが全く続かなかったのでパソコンでつけてみることにした。

別にWordでもメモ帳でもよかったが、後から見直すことがあればファイルの束よりブログの体裁に纏まっていた方が見栄えが良いかと思った。

公開するという形は取ってはいるが、あまり読ませる文章にはならないだろう。

 

私は1993年、平成5年に生まれた現在24歳の女である。

若干栄えている部類の田舎の街に生まれ、義務教育を終え、地元ではそれなりの高校に進学し、ちょっと名の通った関東の大学に進学した。

大学卒業後は普通に就職したが、様々な事情により身体と精神をぶっ壊して今は地元に帰り華のフリーターもどきである。

 

私は小学生頃から、所謂いい子ちゃんであった(と思われる)。

勉強はクラスで一番くらいには出来たし、別段大きな問題を起こすような性格でもなかった。体育は苦手で人並み以下だったけど。

普通に遊び、普通に友達がいて、教師の覚えも悪くなく、のような。あまり手のかからない児童だっただろう。

それは小学校高学年辺りから怪しくなってくるが、勉強がやたら出来るのは変わらなかったし、女子の一大派閥とあまり仲がよくなかったことを除けばそれでも普通で凡庸ないい子ちゃんの域を出なかっただろう。仲の悪い派閥の女子に間接的、たまに直接何か言われたりされたりしなかったわけでもないが、昨今世間を騒がせているいじめ問題などには及ばなかったように思う。

田舎の学校なので小学校と中学校はほぼ持ち上がりで、面倒なことは多かった。女子の大きな派閥とは折り合いが悪いままだし、小学生のときはただバカでうるさかっただけの男子も嫌がらせのバリエーションが増えてくる。煩わしいことが多かったが、多少数学が苦手な以外は相変わらず勉強はできたし、勉強仲間とでも言うべき男子たちとテストの順位を競い合ったりしていた。結構楽しかった。

この頃から私はオタク趣味を持ちはじめ、そちら関係の友達が多かった。

人間関係こそ面倒になっていたが、学級委員長をやってみたり、合唱コンクールでピアノ伴奏をやってみたりと、それなりのポジションを持っていたと思う。

(余談だが、特に田舎の中学校では本人がリーダー向きかどうかよりも、成績が良いと何となく委員長系になるのが多いように思う)

そして、中学3年でいざ高校受験というとき。地元では2番手程度にあたる公立の進学校に狙いをつけた。何故なら(他にも理由はあるが)、偏差値の上下の幅が広かった私の中学からは、その高校を狙える成績の生徒は少なかったからだ。

かくして私は所謂推薦入試に臨み、なんとかその枠に滑り込むことに成功した。

高校の3年間は、義務教育期間にあった人間関係の煩わしさとかそういったものは少なく、あまり無理をすることなく過ごすことができた。ゲームの楽しさを覚え(てしまっ)たり、音楽の趣味が広がったり、勉強以外にも得るものは多かった。その勉強はというと、流石入試を経ているだけあってそれなりにハイレベルな順位争いになるため、中学までの学年トップの維持というプレッシャーもなく、尖って成績の良い科目がありつつ中堅程度に落ち着くことができた。数学はさらに苦手になっていたが。

そして、大学受験を迎えた。理数系が壊滅的に苦手になっていた私は私立文系コースに進んだ。有り体には理数科目を捨てた。その結果英語の成績が上がったのは今でも語り草である。

MARCHクラスを第一志望にして高3を迎えたはずが、気が付いたら教師にその上を第一志望に設定されていた。理数科目を捨ててまで私立文系の道を選ぶなら出来るだけ上を目指せということだった。いかにも国立大が好きな田舎の進学校のやりそうなことである。

模試ではついぞ第一志望校のA判定どころかB判定すら出せなかったが、他の私大の合格を決めてからダメ元で臨んだ第一志望校の入試を何故かパスしてしまい、悩みに悩んだ挙句その大学への進学を決めた。他校が合格発表をインターネット上で行う中、第一志望校は何故か電話の自動音声での発表だったのを覚えている。信じられなくて3回ほど掛け直したことも。

 

大学は東京にあったので、一人暮らしを始めることになった。最初こそ知り合いもいない大学に行き帰ってくれば一人という状況に不安を覚えていたが、サークルに所属してみたことでそれもあまり苦にならなくなる。

このサークルがまた曲者(いい意味)で、音楽系のサークルだったのだが比較的大規模だった。あらゆる学部からあらゆる出身地のあらゆる経歴を持つメンツが集まり、その持っている個性をこれでもかと振り回している無法地帯だった(褒めている)。

私の出身である地元の進学校どころの知名度ではない名門校の出身なんてゴロゴロいたし、本当に頭の良い人ばかり集まって、そして本気でバカをやる集団と化していた。あまりに強烈だった。それゆえの問題も結構起きていたようだが。

今でもあの集団の中にいられたことは私の長くもない人生の中で得難い経験だった。サークルの知り合いとは、皆それぞれの進路をとった今でもたまに会う。

ただ、この経験も良かったことばかりではなく、ただでさえ小学校高学年~中学校の間の人間関係の拗れで他人嫌いの気配があった私に、「自分如きには何もできない」という自己肯定感の低さが加わってしまった気がある。周囲がハイスペックである余り、自分のロースペぶりが結構な劣等感になってしまっていた。就活も周囲が順調に行っているらしいということを聞きながら何も決まらない日々を過ごしていた。結局なんとか就職を決めこそしたが、卒論を1ヶ月で書き上げる羽目になったのはいい思い出である(褒めてない)。

それでも周囲は私のできることを認めてくれたし、私もそれを活かして幹部の席の片隅に座ることができた。慕ってくれる後輩もいたし、悩みを話してくれる同期もいた。

 

就職に伴い関東の別の県へ転居し、新社会人としての生活を始めた。あまり規模の大きくない会社の事務として入社した。

新卒に対する教育には違和感こそあったが、まあそういうものなのだろうと納得して日々研修を受けていた。ただ当時も思ったが、社是などのスローガンを大声で暗唱させられるテストが終業後(もちろん無給)の時間にあったり、新入社員のグループで約30kmを歩くイベントがあったりと、「これはもしやヤバイ企業なのではないか?」感はあった。

それは結果的中するのである。

私含めて7人(後に8人になる)いたはずの新入社員は1人減り、2人減り……最後には事務系で入社した中では私しか残っていない状況になっていた。

ここでも持ち前のいい子ちゃんぶりを発揮してしまったのか私は社長の覚えもめでたく(?)、既に課(といっても自分一人しかいない)に配属され、広報関係の私だけの仕事を任せられていた。詳細を教えられる先輩もいなかったので、分かる範囲での教えを請いつつ、自分で調べながらなんとか仕事をしていた。ちなみにホームページの更新も仕事内容にあったのだが、同人サイト全盛期を過ごしてきた私にはhtmlの解読はあまり苦にならなかった。

まだ事務系の同期がいるうちは、事務室ではなく別の場所で先輩とパートさんと3人で和気藹々とやっていたのだが、状況が変化。私が事務室に詰めることになり、それまでとは比にならない本数の電話応対をしてデータを更新し、来客があればお茶を出し、お客様に呼ばれればその対応をし、その合間にやっと本来の広報関係の作業をする有様だった。今思い返しても、この間まで大学生だった小娘に捌ききれる仕事量ではない。しかし私はそれを多少の不足はあっただろうが、なんとか回してしまっていた。

そしてその年の9月のある日の朝、突如動けなくなった。

出勤を身体が全力で拒否していた。とにかく動けなかった。玄関に行くどころか布団から起き上がることすらできなかった。

なんとか枕元のスマートフォンで会社に電話をかけ、体調悪いのでお休みします、と連絡した。そしてそれを1週間毎朝やった。

そしてその週の金曜日、かかりつけの心療内科で診断書を貰ってそれを会社に送りつけ、休職に入った。適応障害とのことだった。

休職期間中は、それまでの給料と親からの援助でそれなりの生活をすることができた。一日中動けない日もあればちょっと外に出てみるか、という日もあった。都内へのアクセスは悪くなかったので、大学時代の友人と飲んだり、ふらりと遊びに行ったりもしていた。気分は少し持ち直したように見えた。

そして12月、会社の規定上3ヶ月以上の休職は認められないので、年明けからの復職か退職か迫られた。医者からはまだ復職していいとは言ってもらえなかったし、同じ環境でまたこの人達と仕事をするのか、と思うととてつもなく気が重くなった。お世話になった上司には申し訳なかったが退職することに決めて、翌年―今年を迎えることになる。今使っているデスクトップPCはこの会社の補助を利用して買ったものである。ちょっと思うところがないわけではないが、使いやすいのでいいか。

無職期間は割とアクティブに、それこそ大学生のときのように色々出歩いてみたり遊んだりしていた。そうしていることに罪悪感こそあったが。

転職サイトに登録し、何社か面接を受け、中でも私の適応障害に理解のある一社へ内定する。3月から仕事を始め、研修とテストを受け、実地では同時に入社した年上の同期の常に一歩先を行く仕事をしていた(らしい)。(飲み会で聞いた私と同期の評価はそれはそれは筆舌に尽くし難いものがあった)

通勤が若干面倒だったがなんとか毎日通勤し仕事をして、自分へのご褒美もちょこちょこ与えつつ帰る、それが続けられたのは3ヶ月程度だった。

またやってきた。朝動けない。午後から出社する。午後からすらも出社できない。行きの電車で貧血を起こし倒れかける。行けば仕事できるのに、行きさえすれば――

7月、上司との相談の上退職を決める。なまじ仕事ができたらしいだけに、隣の席の上司からは「体調が戻ったらまたおいで」と言ってもらえた。

2社目も続かなかったとなるといよいよ関東に残っているのも金銭的に厳しくなってくる。8月を準備期間として、9月に私は地元に帰ってきた。実に6年ぶりの実家暮らしである。

精神的にぶっ壊れていた私にとって、身の回りのことをやってもらえる実家暮らしは最初こそよかったが次第にそれが精神的な負担となってのしかかってくる。

家族と話すことすら煩わしい。部屋から出たくない。一度一人で外出したら極力帰りたくない。一人でいさせてほしい。一人の時間がないと辛い。

短期のアルバイトに行ってみたり、友達と旅行をしてみたりもした。労働自体が嫌いというわけではないので、慣れないバイトも派遣もそれなりに楽しくやっている。

 

今私は一人になりたい。

身の回りのことをやってもらえる環境も悪くはないが、自分のことを全て自分でやらなければならない状況下で、自分のペースで家事を進めたい。

休みの前日はちょっとお酒を飲みながらゲーム仲間とSkypeしながらゲームして、うっかり朝方まで遊んでしまったあの日とか。飲みに行った流れでオールしたあの日とか。思い立って電車に揺られ都内に行き、一人で食事をしつつ物思いに耽る時間とか。そして家に帰ってきたら真っ暗な玄関の電気をつけて、テレビのチャンネルを変えて、パソコンの前に陣取ってゲームとネットサーフィン。

それが当たり前にできていた時期に戻りたい。

 

そのためにも私の体調と精神面が万全……とは言わないまでも十全程度には戻ってくれないといけないし、地元から再度飛び出すにはカネが必要だ。そのためにも医師から長期就労も大丈夫というお墨付きが欲しい。そしてここではない場所で新たな生活を始めるための職探し。やるべきことは山積している。

そして今度こそ私は、「できること」は勿論、「やりたいこと」を考慮した進路選択をしたい。新卒のときは私には向いていないとか学んでない分野だから無理、と見てこなかった業界も、曲がりなりにも社会人を経た私にはできることがあるかもしれない。いい加減夢を見てもいいのかもしれない。叶うかどうかは別として。

今までのことがあるから一筋縄ではいかないだろう。でも今度こそ私は、忘れていた夢のようなものに手を伸ばしてみたい。

 

私は地元があまり好きではない。

楽しいことも勿論あったし、人間関係もある。

しかしそれは私が関東にいた6年間で色々と変わってしまった。

かつての友人とは些細な事から仲違い。

かつての幼馴染は私の発言で怒らせてしまい連絡が通じない。

それでもまだ仲良くしてくれる友達はいるけど、でもやっぱりあの義務教育期間の遺物がその辺に転がっている環境は、私にはひどく辛いのである。

次家から出るとしたら、別に関東に拘る必要はないだろう。かつてのサークル仲間たちも就職を機に全国へ散っていったし。

捨てるには惜しいものもあるからそれは大事に取っておくけど、私はあまりここには居たくない。

早く体調を戻して、再スタートを切りたいのである。

 

今日はこちらに戻ってきて初めて心療内科に行った。

切らしていた薬を処方してもらえた。特に睡眠導入剤を規定量毎日服用していいというのは助かる。

この文章の後半はその導入剤を飲んだ後に書いているので、多分翌朝読み直したらすごいことになっているだろう。

そろそろ薬が回る。寝よう。おやすみ。